この称号は君のもの
「あと一つ! あと一つ!」
大歓声に揺れるスタジアム。ライトに照らされて輝くマウンド。そこに立っているのはもちろん──成宮鳴。
キャッチャーとサインを交換して、首を振ること2回。ようやくサインが決まったようで頷いた。
私はもう、両手を組んで、今までの人生で一番神様に祈った。
ここはいつものマウンドと違う。日本シリーズの最終戦。日本一をかけたマウンド。今鳴のチームが勝っていて、あとアウト一つで日本一。
カウントは2ボール2ストライク。追い込んでから始まったファンの掛け声は凄まじく、油断すると背を押されて前に落ちそうなくらいだった。
キン! と音がして心臓がドキリと跳ねて──ラインを割ってスタンドに飛び込んだ。
「ファウルボールにご注意ください」
ウグイス嬢の落ち着いた声を尊敬しながら、深く息を吐く。
「あと一つ! あと一つ!」
そのあと一つが遠い。やっぱり決め球であるチェンジアップか、なんて話すおじさんたちの会話。鳴のウイニングショット。でも打つ方ももちろんそれが頭にあるはず。
また鳴が一つ首を振って、そのあとで力強くうなずく。
サインは決まった。
振りかぶって、投げて──。
空を切ったバット。天を仰ぐバッターの人。そして──
「成宮ーーーーー!」
「鳴ちゃーん!」
「日本一だーーーーーー!」
マウンドに駆け寄るナイン。宇宙まで届くんじゃないかと思うくらいに大きい歓声の中で、私はやっぱり人生で一番じゃないかというくらいに、泣いた。
インタビューを見終えて、関係者用のドアを潜らせてもらって、テレビのある部屋へ。ビニールシートで覆われた駐車場で行われたビールかけで、鳴はもみくちゃにされて沢山のビールを浴びて、「痛いんだけど!?」と泣きながら怒っていた。
正直、すっごく、すぐにでも会いたかったけれど。日本一になったプロ野球選手というのは、会いたいと言って会える存在ではないもので。
沢山の取材や仕事を終えて鳴が自宅に戻ってきたのは、四日経ってのことだった。
「ただいまー」
「おかえりなさい!」
荷物を下ろした鳴が両手を広げて待っている。
「ん!」
「…………えいっ」
ので、いつもよりも本の少しだけ勢いをつけて飛び込んでみた。
「もっと熱烈なお出迎えを期待してたんだけど」
「御馳走作ったよ」
「そうじゃなくて! スペシャルな『おかえりなさい』をさ!」
「じゃあ次の日本一の時はスペシャルにするね」
「…………も中々言うね」
「もしかして難しい?」
「そんなこと無いし! 来年も日本一だから! 今から準備しといてよね!」
準備期間一年のスペシャルな『おかえりなさい』。もしかして私は自分で自分のハードルを上げてしまったのかもしれない。けれどそんなことは気にならないくらいに、嬉しい時間だった。
それからも取材やテレビ出演がたくさんあって、一連の出来事がようやく本当に落ち着いたのは一週間後。
「!」
一日の家事を終えたところで、私は鳴に呼ばれて……何故かお風呂場に閉じ込められた。
鳴は私をお風呂場に残して、「ドア開けちゃダメだからね」と言い残して一人出ていった。
物音から察するにリビングの方に居るみたいだけど……。
とりあえず手持無沙汰な私はお風呂掃除のチェックなんかを始めてみた。そろそろカビハイターした方がいいかな、なんて思ったけれど。
ガタン! ごそごそ……。ずりずり……。
鳴の出す物音が気になって仕方がない。わざわざお風呂場に閉じ込めて、一体何をしようというのか。
声をかけようか、と口を開いたところで脱衣所のドアがパタンと音を立てて、鳴が再び現れた。後ろ手に何かを隠していて、いたずらするときのニヤニヤ笑いをしていて。嫌な予感と不安は最高潮。
「ねぇ……鳴……まさか……」
鳴が手を前に出す。隠していたのは…………まさかと思っていたビール瓶。そんな。
「待って!」
「くらえ!」
「やだーーーー! やめてーーーー!」
私に向けられたビール瓶から勢いよく発射された液体は重力に従って落ちてきて……私は初めて頭からビールを浴びた。
瓶一本分のビールを浴びて、いくらか気持ちが冷静になる。鳴はこれ以上ないほど楽しそうだった。マウンドで見せる表情とは全然違う。
「わざわざ準備したの……」
怒ればいいのか呆れればいいのかわからない。ビールの匂いが籠もった浴室で服を着たままの二人。一体何をやっているのだろう。
「そ!」
一般人の身分で食べ物で遊んでしまったような、複雑な気持ちが処理しきれない。
髪も服もびしょびしょで、このためのお風呂場ね、と思ったところで。
「痛っ」
目にビールが入ったようで、経験したことの無い痛みが走る。もうどうせ服も一度水ですすがないといけないし、コックをひねって頭からシャワーを浴びた。そして。
「大胆だね。うわっ!」
「道連れ!」
仕返しとばかりに鳴にもシャワーを向ける。
いい年の大人が二人、お風呂場で服を着たまま水遊び。なんて酷い光景だろうか。
「! 脱衣所濡れてる!」
「後で一緒に掃除して!」
今度は私が満足するまで、鳴に水をかけたのだった。
***
「仕返しされるとはね」
そう零す鳴に思わずふふんと鼻を鳴らす。
風邪をひく前に、そのままお風呂になりそうだ。服の匂いを嗅いでみたけれどビール臭い。これって普通の洗濯で匂い取れるのかな。こんなことで普段着をクリーニングに出すなんて嫌だ。
「いつから計画してたの?」
「ビールかけ終わった後!」
容易周到なのはいいけれど、こういう計画性はもっと別のところで発揮してほしい。
「匂いで酔いそう……」
「そうなんだよね。換気扇まわそ……うわ、ひっどい」
お風呂場の外にある換気扇のスイッチを求めて脱衣所の様子を見た鳴が零す。私も鳴の腕の隙間から脱衣所を見た。………………ちょっとやり過ぎたかもしれない。洗濯機も水を被っていて少し後悔した。故障しないよね……。内側の機械のところに水が入ってなければ大丈夫、と自分に言い聞かせてお風呂の準備を始めた。
「もう……。こんな昼間からお風呂になっちゃったじゃない」
「一緒に入ろっか」
「………………狙ってた?」
「俺は濡れてない予定だったけどね」
「もう!」
「いいじゃん。お風呂済ませて、脱衣所掃除して、少し休憩したらごちそうの夕ご飯にしよ」
確かに、鳴の提案した通りのスケジュールに変更になるだろう。
「我が侭まで日本一にはならなくていいのに」
温かいシャワーのおかげで温度が上がったお風呂場の中。私は鳴に後ろから抱きしめられた。
「仕方ないよ。日本一の俺の奥さんにもお祝いしたかったから!」
こういう殺し文句はどこから出てくるのか、頭の中を覗いてみたい。熱くなった頬と耳はお湯とお酒のせいにしようと心に決めて、お腹にある大きな手に自分の手を重ねて──私は鳴の唇を受け容れた。
***
洗濯機を心配する私に、鳴は「壊れたらバラエティ番組でのネタになる」というよくわからないポジティブ思考だった。
結局、夜に試した結果洗濯機は無事だった。そして、ビールの匂いの付いた服は、漂白剤につけた後二回の洗濯で事なきを得たのだった。