きみは前だけ向いてなよ
真夏の太陽を浴びながら、寒気を味わえるなんて経験を──私は人生で何度体験するのだろうか。
高校三年生の夏。私たちにとって、鳴にとって最後の……甲子園を目指す夏。
大学受験の勉強もあるから、直接球場へ行くことは前よりも減ってしまったけれど……それでも、出来るだけ試合を見に行ったし、必ず辿り着くと信じて、決勝戦の日は予定を空けていた。
稲実というチームは当たり前のように強豪校として扱われているけれど、ずっと同じ選手が所属しているわけではない。
秋大のことがあったから、鳴達が最上級生になってからは、前よりもずっとドキドキしながら試合を見ていることが多かった。
けれど、やっぱり彼らは稲城実業高校野球部なのだ。
高校三年の夏も、当然のように決勝戦に名乗りを上げた。
対戦相手は去年と同じ、青道高校。キャプテンは──幼い頃から何度も対戦した御幸くん。
灼熱の球場で行われた試合は、都大会とは思えないほどの──言葉では言い表せないほどに、凄いものだった。
1点リードされた状態で迎えた9回の攻撃。去年と同じくサヨナラを期待するスタンドの歓声。
けれど……稲実の逆転は敵わず……。
2対1で試合は終了。
稲実は準優勝。
八月の予定は空いたままだ。…………もちろん私のも。
***
灼熱の中で行われた熱戦も、まるで一日過ぎれば忘れられたかのように、新しい日を迎える。
テレビでは東東京の決勝戦を中継していたけれど……。私は自分の部屋に籠って、受験勉強をしていた。
お昼ご飯の用意が出来たとお母さんから声をかけられて、勉強を中断してリビングへ。具だくさんの冷やし中華だった。
「いただきます」と声をかけて、麺をほぐしている時に、母が「そういえば」と言葉を零した。
「荷物受け取った時に会ったんだけど、鳴ちゃん、帰ってきたわよ」
「…………そっか」
「行かないの?」
「うーん……。……まずは、おばさんと色々話すでしょ。きっと後で来るよ」
エアコンの効いた室内。具だくさんの冷やし中華。氷の入った麦茶のグラス。外から聞こえる蝉の声。自分の部屋に戻る時に通る廊下の、嫌になる暑さ。
「……………………」
廊下にある窓から成宮家が見える。
…………そうか。鳴は、帰ってきたんだ。
***
午後も受験勉強に励む。夏の間は苦手科目を集中的に学ぶことにしていたけれど……。鳴が来た時に中断しやすいようにと、気分転換も兼ねて社会の暗記をやることにした。
…………どうして、国際的な機関というのは、どれもアルファベット三文字とかの名前なんだろう。覚える方の身にもなって欲しい。いや、やたらと文字数の多い正式名称を全部書けと言われるならアルファベットの略称の方がいいのかな。でも結局はどっちも覚えないと意味が無いし……。
一通り内容をさらって、問題集に挑戦してみようかと思ったところで、階段を上ってくる足音が一つ。鳴だ。時計を見れば15時の10分前だった。
バタン!
やっぱりノックも無しに扉を開く。日に焼けた顔と腕。夏の私服姿を見るのがやけに久しぶりに感じられて。
「おかえり」
「……………ただいま」
鳴が、帰ってきた。
言葉少なく、私のベッドに寄りかり、いつもの定位置に鳴が座る。
私はとりあえず、二人分のお茶を取りに行く。
ことりとローテーブルにグラスを置いて。
鳴の隣に座る。
昨日沢山泣いたのだろう、目元は赤くなっていた。
「…………………………」
「…………………………」
「…………日本一のお祝い、少しだけ先になったね」
「……………」
「ならないの?」
「なるよ! この先何回も!」
「うん」
弾けるようにこちらを向いた鳴と、ようやく視線がぶつかった。
…………どうしてだろう。昨日はずっと、なんて言葉をかけようかと悩んでいたはずなのに。今こうやって、鳴を目の前にしてみると、もう話す言葉は一つしか見つからなかった。
「ありがとう」
「…………負けたんだけど」
「うん、でも……鳴が野球をしてくれてたから、沢山の夢が見れた。沢山応援できた。楽しいことも、悩むことも、色んなことがあったけど。それでも野球を続けてくれて、ありがとう」
この二年と四か月は、私たちにとって初めてのことの連続だった。
初めて離れて、会える時間なんてほんの少ししか無かったけれど。
それでも。
甲子園に応援に行って。一年の秋からエースナンバーを背負って。都のプリンスなんて騒がれて。秋になって最高学年になった時から、鳴の雰囲気はまた少し変わった。私が思っているよりもずっと、色んなことがあったんだろう。
でも。
鳴が野球を続けてくれたから、応援することが出来たのだ。
「…………勝ちたかった」
「うん」
「甲子園で優勝したかった」
「うん」
「…………悔しい」
「…………うん」
負けず嫌いで、どんな勝負事でも負けたくない鳴。
勝ちたいと思っているからって、全部勝てる訳じゃない。
今までも、沢山負けてきた。けれど、鳴はそこで諦めない。
必ず、負けたことから何かを得て。そうして──また前に進んでいく。今までも、これからも。
「まだまだ、これからだよ。ドラフトで一位指名されて、新人賞とって、最多勝とって、沢村賞もとるんでしょ?」
「それはそうだけど!」
『高校生の三年間って、その先の時間を思えば、ずっと短いものよ』
いつかお母さんが言っていた言葉が、頭に浮かんだ。
「……どうして、甲子園って特別なんだろうね」
「は?」
「プロ野球の試合もやってるから、プロになったら甲子園で投げることもあるじゃない?」
「そうだけど」
「それなのに、どうして、高校生にとって甲子園って、特別に感じちゃうのかなぁ、って」
「そりゃ……全国大会だし」
「うん」
「注目度も違うし」
「うん」
「…………はなんでだと思ったの?」
「…………色々考えてたら、わからなくなっちゃって」
「………………」
「………………」
「いっぱい、でっかいこと言ってきたし」
「うん」
「色んな人が、いっぱい、応援してくれてたし」
「そうだね」
「…………にも、離れて…………」
「違うよ、鳴」
「」
「私たちは二人で、離れることを選んだの。だから、それは鳴だけのものじゃないよ」
絆創膏の付いている鳴の左手を取って、ぎゅっと握り締める。私の気持ちが全部伝わればいい。……きっと、伝わってるはずだ。
「……………勝ちたかった」
「うん」
「悔しい」
「うん。でも」
「何さ」
「でも、終わりじゃないよ。これからも、鳴が野球を続けるなら」
きっと、この先もずっと──鳴は野球を続けるのだから。
「やっぱり、ってたまにすっごく、男前だよね」
そう言って、鳴にしては珍しくほんの少しだけ苦みが残ったように、笑った。
***
「ねぇ、せっかく帰ってきたんだから、花火しようよ。コンビニのやつでいいから」
「まだちょっと早くない?」
「でも夜には向こうに帰っちゃうでしょ?」
「まぁそうだけど。でもコンビニのって手持ちしかなくない? そんな地味なのヤダよ。もっと大っきいの! ドカンと打ち上げるから!」
「家の庭だと難しいよ」
「公園!」
「最近はどこも花火禁止だよ」
「何それ!」
なんだかんだと文句を言いながら、鳴はコンビニの手持ち花火に付き合ってくれた。
このことは、私たちにとっては珍しい、高校生活の夏に一緒に過ごした数少ない思い出の一つになったのだ。
Title : さよならの惑星