お隣の家の女の子

お隣のさんの家には、我が家のワガママ末っ子長男と同級生の女の子がいる。ちゃんという、優しい女の子だ。
上に二人娘がいる関係で、さんの奥さんとは育児のことや家庭のこと、いろいろなことを話してきた。
お隣の家に住む、同い年の幼馴染。ちゃんと鳴は公園デビューの日も同じで、三歳の七五三も一緒にやった。夫の影響で鳴が野球を始めてから、のめりこんでいくまではあっという間だった。誰かが見ていないと不機嫌になって文句を言う鳴に、ちゃんは見ているこちらが申し訳なくなるくらいに根気よく付き合ってくれた。
リトルリーグに入ってからも変わらず、練習に付き合い、我が家の車に乗って一緒にグラウンドに行き、練習も試合も応援していた。
二人で過ごす時間は多く、二人の世界が狭まってしまうのではないかと母親二人で悩んだこともあったけれど、杞憂に終わったこともあった。
中学に入ってから買い与えた携帯電話。鳴は家族と連絡先を交換するよりも前に、ちゃんのもとへと駆けていった。
春の日も、雨の時も、真夏の暑い日も、短い秋の間も、寒さに震える冬の日も、鳴は野球の練習を欠かさない。そうして、どうしても譲れない用事がある日を除いて、その隣にはいつもちゃんの姿があった。
私たちが仕事で鳴の野球を見ることが減っていっても、鳴にはちゃんがいてくれた。
中学三年生の新学期。四月の中旬。夜ごはんの後我が家にやってきたちゃんは、何かを決意した表情で階段を上がっていき、五分も経たないうちに困惑した表情で降りてきた。
「……………………」
ちゃん、どうしたの? 鳴が何かした?」
「………………ううん。鳴は走りに行くって……。……あのね、おばさん。私、高校は……稲実には行かない」
返事をする間もなく、「お邪魔しました」と小さな声で呟いて、どこかおぼつかない足取りでちゃんは帰っていった。
まさか、この日に二人の関係が変わったとは思わず。
私とさんが二人の関係に気が付いたのは、ゴールデンウイークを過ぎたころだった。
受験勉強を頑張るちゃんと、推薦で学校が決まっていて、変わらず野球に邁進する鳴。自然と二人でいる時間は減っていく。
高校生になったら、二人の仲は続かないかもしれない。
地元の高校に進学するちゃんと、八王子の高校──それも寮に入る──に進学する鳴。同じ都内にいるといっても、正反対の西と東だ。高校生という年頃にとって、この距離は難しいものだろう。ましてや、今までずっと寄り添うように隣にいた二人には。
高校の制服が出来上がった日。ちゃんは嬉しそうに我が家にやってきて、鳴にも制服を着るように急き立てる。
そうして、家の前で撮影した写真は、二人が高校の制服姿で映った唯一の写真となった。



***



鳴が寮に入ったからといっても、目まぐるしい日々が終わったわけではない。仕事。家事。大学生になった娘。そして離れた場所で寮生活を始めた末っ子長男。
息子というものはこういうものなのだろうかと一括りにするつもりはないけれど、鳴は連絡不精だ。
案の定、寮に入ってからはあまり連絡が取れなくなった。
仕事、家事。八王子まで行くには時間が足りない。
ゴールデンウイークの中休み。仕事に行くとき、ちゃんと会って、一緒に駅まで行ったことがある。その時、私はつい「鳴ったら全然連絡をよこさない」と愚痴を零してしまったのだ。
その日の夜、久しぶりに我が家にやってきたちゃんは、少しためらってから、「鳴には言わないで」といって携帯を差し出した。──画面に映っていたのは、鳴からのメールだった。
それからちゃんは、鳴が出る練習試合の日程や、学校生活のこと、部活のこと、見に行った試合での鳴の様子など、色んな事を私に報告してくれるようになった。

そろそろ鳴の嫌いな梅雨がやってくる。そう思った六月の終わり。
その日も我が家にやってきて鳴の話をしてくれたちゃんは、少し申し訳なさそうにこういった。
「アルバイトを始めるから、今よりも時間が取れなくなる」と。

「女の子はいろいろとお金がかかるものね。帰りは遅くなるの?」
「お父さんが迎えに来てくれるから大丈夫です。夏の予選が始まるから、今のうちに電車代をためておきたくて。あと、オペラグラスとデジカメを買いたいんです!」
遊びたい盛りの女の子がバイトを始めて、なんと使い道は鳴の応援のためだという。
驚きのあまり口を開いたまま固まってしまった私を、ちゃんが心配している。
…………この時、私は初めて『この二人は結婚するかもしれない』と思ったのだった。



***



子どものころは一年が過ぎるのはとてもゆっくりに感じるものだ。ましてや、初めて離れて過ごす時間なんてものは、特にそうだろう。
年末年始の休みに帰ってきた鳴は、真っ先にちゃんに会いに行った。
スマートフォンへの機種変更を終えた日も──やっぱり、あの子はちゃんに会いに行った。
その次の日も、鳴はちゃんと出かけていった。…………誕生日プレゼントを交換しあうらしい。
そうして、年が明けて元日の夜にちゃんが我が家にやってきた。なんでも、鳴にバレンタインのチョコレートを先に渡すためだという。
私は彼女に謝って、鳴を叱ったけれど……ちゃんは「大丈夫」と笑っていた。
ちゃんは私たち家族が応援に行けない試合にも顔を出し、鳴と話ができた時は欠かさず様子を教えてくれる。もちろん、一緒に甲子園の応援にも行った。

やがて秋になった。秋季大会が始まる少し前。ちゃんは立派なデジカメを持ってそれは嬉しそうに我が家にやってきた。なんでも、望遠レンズの良いものを購入したのだという。彼女は楽しそうに、当たり前のように話す。「鳴の写真を撮るのが楽しみだ」と。

鳴の高校二年目の夏は、思い出したくない出来事が多い。
鳴は〝都のプリンス〟だとか騒がれて、家の周りには数えきれないくらいマスコミが集まった。幸い、近所の人は理解を示してくれる人が多かったけれど、記者たちは我が家以外にも手を伸ばす。
ご近所の人は鳴のことを話すとき、必ず一緒にちゃんのことも思い出すだろう。それくらい、二人はいつも一緒だった。

ちゃんには、何度お礼を言っても、何度謝罪をしても足りないくらいだ。
高校を卒業して鳴がプロ野球選手になり、ちゃんは大学に進学して一人暮らしを始めた。
それでも、彼女はやっぱり──鳴を応援していた。
雑誌や新聞、グッズを買い、時には試合を見に遠出する。
彼女が購入したデジカメとオペラグラスは、三台目となっていた。



***



娘たちが大学を卒業して働き始め、鳴もプロ野球選手となり──我が家はようやく、少し落ち着いた時間が取れるようになった。
鳴が野球を始めてから、あまりにも目まぐるしい日々だった。
夫と相談して仕事の量を少し減らした私は、ゆっくりとお茶を飲みながら新聞を読んだりしている。
────息子の写真が新聞に載っていることにも、ようやく慣れたという事実がどこか恐ろしい。
気温の下がらない夏の不快な夜。オールスターの試合が終わった時期、久しぶりに鳴から電話がかかってきた。

「結婚するから」
「…………ちゃんには話したの?」
「まただけど?」
断られることを微塵も考えていない息子に、我が子ながらすごいと思ってしまった。そもそも相手を確認する必要がないということも、おかしな話だけれど。

「そういう話は電話でするものじゃないのよ。一度顔を見せに帰っていらっしゃい」
「顔合わせっていってももう全員知り合いなのに?」
「……まずは、あなた一人で来なさい。お父さんにも話しをしておくから」
「………………分かった」
不満な様子を偽ることもせず、鳴は電話を切った。



***



鳴は電話から二週間と経たない間に家に来た。
昔からちゃんのこととなると行動が早い。

話しを聞けば、結婚すること自体は随分と前──高校生の時だというから驚いた──に了承をもらっているという。
夫は「口約束では」と訝しんでいたけれど、鳴は「も絶対覚えている」と頑として譲らなかった。
ちゃんの性格を思えば、私も覚えているだろうと判断せざるを得ない。女の子が憧れを持つ、結婚という一大イベント。目の前に居る息子のことよりも、彼女の夢が壊れていないかの方が、よっぽど心配だった。

「反対とかするの?」
そんな可能性など存在しないと確信しているかのように、お茶を飲みながら鳴が零す。
夫が「家族を持つということ」がどれほど責任のあることなのかを話している間、私は自分の気持ちを確認する。
ちゃん以外の人を連れてくるというのなら、一度止めただろう。
鳴は当たり前のようにちゃんと結婚するつもりでいる。
ならば────私は。

「鳴。あなたは、ちゃんという存在がどれほど大切で、凄いことだというものか、ちゃんと分かっているの?」
「分かってるよ」
「…………鳴。あなたが高校に入ってからは、あなたよりもちゃんと会っていた時間の方が多いくらいよ」
「まぁそうだろうね」
「あなたが稲実に入ってからも、ちゃん、家に来てくれてたのよ。私が『鳴があまりメールの返事をよこさない』って零してからは、『こんなメールがきた』とか、『試合でこんな様子だった』とか……。いろいろ話をしてくれたのよ」
「………………ふーん?」
ちゃんがバイトを始めた時、私は『女の子は色々お金かかるものね』って言ったら、あの子、なんて言ったと思う? 『鳴の試合見に行きたいし、試合の時用に望遠のデジカメも欲しい』って言ったのよ」
「それは知ってる」
「小さいころからずっと、ちゃんはあなたのわがままに付き合ってくれて。……ずっと、あなたを応援してくれている」
「………………」
「だからね、鳴。私は結婚したら──絶対にちゃんの味方になります。そして、あなたは……絶対にちゃんを守って、世界一幸せにしなさい。それが約束できないなら、私は結婚には反対します」
「…………じゃあ、賛成ってことだね」
「…………鳴?」
「…………そんなの、当たり前のことじゃん! 俺に出来ないとでも思ってるわけ?」
鳴はいつものように笑っていた。自信とやる気に満ち溢れた顔だった。



***



「あれ、今日、約束してた日だった?」
「してないよ」
「そうだよね? とりあえず入って。…………何かあった?」
「別に! 顔見に来ただけ!」
「…………そう? そうだ、鳴、この前球団のYouTube見たよ。ブルペンの様子映してるやつ。あと球団の応援歌を収録してるやつも。今って色んなことやってるよね」
「まぁ、俺みたいに才能がマルチにあると、そういう話がいっぱいくるんだよね」
「CD出るなんて歌手みたいだね」
「…………なんかまた俺のグッズ増えてない? 買ったの?」
「そうだ、見て!」
「何?」
「プロ野球チップスのカード! 鳴の!」
「すごいじゃん、出たの?」
「御幸くんがね」
「は?」
「御幸君のレアカードが出たから、鳴のカードが出た人と交換したの」
「………………」
「今年のユニフォームすっごく好きだったから、嬉しくって」
「前から言ってるけどさ、そういうのは言ってくれたら渡せるから」
「分かってないなぁ。自力で手に入れるからこそなんだよ」
(交換してるじゃん)
「秋季キャンプ頑張ってね!」
「…………キャンプ終わったらお祝いにどっかいいところにご飯食べに行こうか」
「分かったー」