たとえ、逢えなくても
「こんな感じかなぁ」
荷物を詰めたスーツケースのファスナーを閉めて、両手でハンドルを掴んで玄関に置く。旅行の準備は何度か経験しているけれど、毎回、スーツケースを閉じた後に何か忘れていないか不安になってしまうのはどうしてなんだろう。国内旅行なので、最悪着替えとチケットだけ忘れていなければ何とかなるだろう。手持ちの鞄にチケットが入っているかを確認してから、冷蔵庫を開ける。夕ご飯に作り置きのおかずを食べきって、キッチンのガスの元栓を閉めた。……生鮮食品はみんな調理して冷凍庫に入れてあるし、あと手元にあるのは明日の朝ごはんになる菓子パンだけだ。大学一年の夏休み。私はこれから旅をする。
帰省じゃなくて、友達との旅行でもなくて、リゾートバイトのような泊まり込みでもなくて──大学生としては少し変わった旅行だ。
***
大学に入学して一番驚いたのは長期休暇の長さだ。
春休みが二か月もあるのに、夏休みも二か月ある。
私の大学の年間スケジュールを把握した鳴は、直ぐに移動手段もホテルもチケットも全部手配するから試合を見に来て欲しいと言った。
春休みにはオープン戦。夏休みにはペナントレース。
近隣で行われる試合にはなるべく足を伸ばして見に行っていたけれど、鳴の提案は遠方で行われる試合の話で。〝推し活〟という言葉が世間に浸透した今でいう、〝遠征〟だ。
「さすがにそれは……」と断ろうとした私に、鳴が送ってきた言葉は。
『俺のモチベーションの向上に協力して』
その言葉を受け取ったのは大学の食堂だった。驚きのあまり固まってしまって、調理師のおばさんに三回も声をかけられた。
………………正直、この言い方はかなりずるいと思う。付き合いが長いから……こう言われると私が断れないということを、鳴はよくわかっている。
結局私が折れる形で、バイト代でスーツケースを購入した。
休み前の試験が終わってからやり取りを重ねて、〝遠征〟の日程が決まり、鳴は直ぐに新幹線、ホテル、試合チケットの手配を済ませて発送した。……こういう時の行動力は凄まじいのだ。
……それだけ、私が試合を見に行くことが鳴にとっては嬉しいのだと頬が緩んでしまう。…………一人暮らしの自室で誰が見ている訳でもないのに、思わず頬を抑えてしまった。
ポストに届いた郵便物をうきうきと開封して、内容を確認する──そして私は硬直した。
新幹線のチケットに書かれている〝グリーン券〟という文字。
試合のチケットには〝プレミアムシート〟の文字。
極め付けはホテルについて書かれていたメモ用紙。
そこには、自分では到底予約しない──出来ない──シティホテルチェーンの名前があった。
『チケット届いたよ、ありがとう!』
送ろうと思っていたテキストを消して、新たな文章を入力する。動揺して何度も文字を打ち間違えた。
『こんなに高いホテルじゃなくていいよ! 新幹線も、チケットも!』
『もう予約したから』
『ホテルはキャンセル料かからないってサイトに書いてある!』
既読は付いたけれど、その後返事はこなかった。絶対うやむやにしようとしてる。鳴が私のことを理解しているように、私だって鳴のことを理解している。私は最後の手段を使うことにした。
『このまま無視するなら行かない』
話し合いを避けるなら、強硬手段をとるしかない。
ホテルのサイトを開かなければよかった。部屋のグレードや料金プランが嫌でも目に入って、心臓に悪い。
レストランのページに『ビーチサンダルでのご来店はご遠慮いただいております』という注意事項。これ以上何も知りたくないのに操作する指が止められない。ついにルームサービスのメニュー表に辿り着いて携帯を落としそうになった。
ルームサービス!?
自分の人生にその言葉が登場するなんて想像もしていなかった。頼まないし、頼めないけれど!
ホテルのサイトを見て困り果てる大会があったら日本一になれるだろう。そんなことを考えるくらいパニックになっているところで、携帯の画面が切り替わった。鳴からの着信だ。それだけ確認して直ぐに応答ボタンをタップした。
「鳴!」
「はいはい」
「色々やりすぎだよ! 新幹線は指定席でいいし、試合も内野指定席とか色々あるのに! ホテルだって!」
「新幹線と試合の方はまぁわかったけど。ホテルだけは絶っっっ対無理! 一人で来てもらうし、俺も側にはいられないから」
「~~~~でも!」
「これは絶対譲らないから、も慣れて」
「………………」
お金をかけることが大切にしている証だと思ってはいない。それでも……お金をかけてくれるというのは、鳴が私を大切に思ってくれているという一つの事実だ。その気持ちをすべて跳ね除けて自分の主張を通すのは……違うのではないかと私は思う。
「………………今回は送ってもらったプランで行く。でも、次回は私の話も聞いて」
「わかった。でもホテルだけは譲らないからね」
***
短い通話を終えて、メモ用紙とスマホを手にベッドに倒れ込む。仰向けになって顔の上にスマホを持って、ホテルのサイトを改めて眺めた。キャンセル料とか、お金に関わる記述しか目に入っていなかったけれど、設備は施設を確認するとため息が零れるほどに素敵だ。
一度『行く』のだと決意を固めると、どの服を着て、どの靴を履いていけばいいのかと具体的に考え始めるから人間って不思議だ。
ロビーもラウンジもすっごく素敵。24時間開いているフィットネスジムも併設されているのに驚く。
私はどこにでもいる普通の大学生なのに、こんなにいいホテルに宿泊するなんて。
「………………」
こういうことを、誰かに話して共有できないのは……少しだけ残念だ。でも誰かに言う訳にもいかない。大学生という身の丈に合っていないし、友達と一緒に行く、ということが叶う訳でもないから。
ルームフレグランスの情報やバーの写真を見ながら、心臓が高鳴る。…………仕方ないよ。こんなに素敵なホテルに泊まるなんて、夢を見ているようだもの。
胸に手を当てていつもよりも早い鼓動を落ち着けようと、深く息を吸った。
***
新幹線には何度も乗っているのに、到着のアナウンスを聞いて急に緊張してきてしまった。列の最後尾に並んで、前に立っている人達をそっと覗う。スーツ姿のサラリーマン、年配のご夫婦、一人旅の外国人。みんな普通の人で──私もそのうちの一人だ。
ドアをくぐって番号の席まで歩く。窓側の席だった。指定席よりも広い座席。シートの前にスーツケースを置いても足元には余裕がある。手元にあるボタンでフットレストを操作して足を伸ばす。
…………すごーい!
声を出さずに歓声をあげれば、滑るように新幹線が発車した。
***
初めて訪れる駅の雑踏の中で、自分の世界がいかに狭いかを実感する。駅のコンコース、乗り換え案内の路線名。海外旅行をしているわけでもないのに、知らない場所というのは色んな感情を呼び起こす。……いつも生活している街にも、知らない人の方が多いのに。
ホテルはターミナル駅から五分も離れていない場所だ。ここまで来たのだからとスーツケースを引く手に力を込めてドアをくぐる。…………映画に出てくるような大きなシャンデリアの下を通り、フロントでチェックインを済ませると、スタッフの人が部屋まで荷物を運んでくれて……気が付いた時にはホテルの部屋に一人で立っていた。
窓も、ベッドも、ソファも何もかもが大きくて美しい。ソファに浅く座ると、身体中の力が抜けていく。
『これは絶対譲らないから、も慣れて』
慣れる日、来るのかな? 私に? 本当に?
嬉しくない訳じゃない。楽しくない訳でも。それでも……一人でホテルに泊まるよりも、二人一緒に居られる方がずっと嬉しいな。今はまだ、一人で過ごさなくてはいけないけれど。
いつか、二人で一緒に旅行ができたらいいな。
一緒に夜の街を歩いて、名産品を食べて、お洒落なバーでお酒を飲む。鳴の知っている場所でも、二人とも初めての場所でも、どっちでもいい。
「…………鳴の欲張りがうつったかな……」
自分の力では決して泊まれないホテルの部屋で、もっと貪欲に夢を見た。
***
卵料理の実演コーナーがあって、ふわふわのオムレツを頼んで、うきうきしながらテーブルに戻る。
デザートも豪勢で朝からケーキを食べてしまった。一人客だから浮いてしまわないかとドキドキしていたけれど、普段利用しているお店とは客層が違い過ぎて、すべての人が穏やかでスマートだった。普段そんなに揉め事に出会う訳ではないけれど、この環境だとそういう問題に遭遇する確率は更に下がるのだろう。……鳴が譲れないと話していたのは、きっとこういうことなんだ。スタッフの数も多いし、少し周りを見回しただけで直ぐに声をかけられて、悩みは解決する。
…………なんというか、凄い世界を知ってしまったなぁ。鳴はいつもこういう生活をしているのだろうか。レストランを出て、すっかり慣れた部屋に戻って、朝陽の眩しい景色を眺めながら考える。
これはすべて──鳴が努力して掴み取ったものだ。
私はそのことを──決して忘れてはいけない。いい香りのフレグランス。隣の部屋の音や通路を歩く足音なんて聞こえない、静かな部屋の中。鳴の応援グッズを取り出して、今日の試合だけじゃなくて、ずっと、ずっと──精一杯応援しようと決意を改めた。
***
球場に着いてから知ったのだけれど、プレミアムシートには専用のエントランスが設けられていて驚いた。中に入れば専用のラウンジがあって、いつも売店で購入しているものとはまるで違う料理が並んでいる。……私、昨日から一体何回驚いたのだろう。数えておけばよかったかもしれない。
〝プレミアム〟の名前を冠している通り、シートは広く、クッションもついていて──何よりもマウンドが近い。
プロ野球の試合は何回も見ていて、大体のことは知っているつもりだったけれど……全然そんなことなかった。
ラウンジでの食事もそこそこに──ラウンジでの飲食も楽しみ方の一つなのだろうけれど、私は直接試合を見て応援したかった──座席でずっとマウンドを見ていた。
鳴のチームの先発ピッチャーが早々に打ち込まれてしまって、ランナーが二人出塁したところで、鳴は二番手としてマウンドに上がった。
三人のバッターを打ち取って、二者残塁で次の回へ。
球場の雰囲気ががらりと変わる。やっぱり──鳴は凄いピッチャーだ。
試合を見に来られてよかった。素直にそう思った。
***
試合後、いくつかお土産を買って、ホテルにもう一泊して、新幹線のグリーン車で自宅へと帰る。
色んな体験をした旅行だった。
たとえ、逢えなくても……鳴のモチベーションが保たれるなら、また行きたいな、と思う。
発車した新幹線の中で、LINEを開いて、鳴にメッセージを送る。
ホテルについては鳴の希望する場所で構わないこと。
新幹線はグリーン車ではなくて指定席で充分にありがたいこと。
試合のチケットは内野や外野の一般席で見たいこと。
最後に、色々と準備してくれてありがとう。
***
「鳴、そろそろ切り上げるぞ」
「わかった」
「ミーティングあるし飯食っとこうぜ」
「そうだね」
(携帯……かな。やっぱりそうだ、着いたかな)
『ホテル着いたよ』
『ね、いつか二人で一緒に旅行しようね』
『絶対!』
「………………」
「どうしたんだよ、頭抱えて」
「…………明日の試合彼女呼んだんだけど」
「あの幼馴染か」
「新幹線もホテルも全部俺が手配して送ってさ、今ホテル着いたって連絡着て」
「…………おう」
「着いたよって送ってきて次に言うことが『いつか二人で一緒に旅行しようね』って何!」
「知らねぇよ!」
「あーくそ! なんで会えないんだよ!」
「夜ミーティングあるからな!?」
「わかってるよ! あーもう! 会いたい!」
「明日の試合にぶつけろ。お前が出るか知らないけど」
「無責任だな!」