生贄のマリオネット
産まれてからずっと……世界は、塀に囲まれた大きな家一つだけだった。
食事も、飲むものも、着る物も、眠る場所も……すべてを与えられていた。けれど、〝自由〟だけは与えられなかった。
定められた時間に起き、定められた食事をとり、定められた教育を受けて、身体や髪、爪……常に美しくあることが求められた。
言葉遣いや所作は徹底的に教育されていた。
誰が決めてこの生活を送っているのかなど、知らされることはなく。
ダンスを嗜み、社交界の常識とマナーを覚え、古典、歴史、地理、音楽、フランス語、筆法、体術、紅茶の入れ方、人のもてなし方。様々なことを学んだ。
何のために学んでいるのかなど、何も知らずに。
十人を超える姉と、五人の兄──彼らは家族でもあり、教師でもあった──は様々なことを教えてくれた。
五歳を迎えた時。
七人の姉が同時に妊娠し、皆同じ週に出産した。
空き部屋には揺り籠が七つ置かれ、家族が増えた。
一人、姉は赤子を抱きながら泣いていた。
「かわいそうに。この世に生まれてきてしまった。ごめんなさいね……。私を許して……」
新しい家族が増えてから、年月を経て。
日々は、ある日突然崩壊する。
外からやってきた見知らぬ男性に腕を掴まれ、一人別室に連れていかれた。部屋の中にはもう一人男性がいた。
「この子で間違いないか?」
「あぁ。写真の子だ」
彼らが告げる。
この家を出て、これからは別の場所で暮らすこと。
一人だけ、ともに暮らす人間を連れていけること。
新しい家でも絶対に外には出てはいけないこと。
皇帝のお召しには必ず応えること。
連れていく人間を除いて、皇帝の許可なく他人と会わないこと。
──拒絶は許されなかった。
従順で無ければ家族が殺されると、男が小さく呟く。
────己は人間ではなかった。
まるで、人形のようだと思った。
***
ともに暮らす相手には、最も親しい者を選んだ。
彼は力強く頷いて、差し出した手を取ってくれた。
家族と短い別れの時間を過ごし、長いリムジンで連れていかれた先は、豪華で、美しく整えられた屋敷。
美しい壁紙、調度品、家具……すべてが一級品だと一目でわかる。
屋敷の間取りや設備について一通り説明されたのち、男は一つの扉について説明した。
屋敷の扉は、全て白かったのに。その扉だけは黒で……それだけで異質だということをこちらに訴えているようだった。
重い音が響いて、扉が開き……空気の冷たい石畳の通路を進めば、着いた先は……神聖ブリタニア帝国の宮殿、王の私室。
その部屋で少女は大公という地位を授与され、皇帝の死ぬ瞬間を幻視し……そして、おぞましい日々が始まった。
***
痛む身体に鞭を打つように、彼の手を借りながら、二人は屋敷──今日からの新しい住居──へと戻ってきた。
鉛にでもなってしまったかのように身体が重い。
人の手を借りなければシャワーすら満足に行えない程に、少女は憔悴していた。
苦労してどうにか身を清め、コットンで作られた白いワンピースを身に纏う。……誂えたかのようにサイズが丁度良いのが、彼女を更に不愉快にした。
紅茶を準備するという彼の申し出を断り……少女は冷たい水を欲した。
ソファに触れることを厭い、細かな文様の描かれた床に座り込む。
無作法だろうが、咎める人間など存在しない。
だから、そうすることが正解のように思えた。
美しい細工が施されているグラスに水が注がれるのを、ぼんやりと眺める。
グラスを壁に投げつけたい衝動が込み上げたが……痛む身体では難しい。
グラスを持つ手が震えて……やはり、彼が手を添えて、ようやく水にありつくことができた。
シャワーも、水を飲むことも、手伝ってもらわなければ出来ないなど……まるで幼子のようだ。
「………………」
「………………」
耳が痛むほどの静寂。喉を通る水の感触はするのに、まるで実感が伴わない。
──かわいそうに。この世に生まれてきてしまった。
水を飲むためにあげていた腕が急に力を失い……四肢を投げ出すように身体の力を抜き、彼に寄りかかる。
大多数の人間は、恐らく、このような状況では涙を流すのだろう。
他人がどう考えどう捉えるかなど、少女にはどうでもよかった。……何よりも、自分は涙を流したいとは思っていない。だから、
泣くという行為は不正解だと思った。
そう、このような事態に突き落とした元凶に泣かされるなど……あってはならない。
冷たい水を飲んだばかりなのに、腹の底はぐつぐつと煮え滾っていた。
これは怒りだ。
あまりにも強く、苛烈な怒り。
この屋敷は籠であり──檻だ。
もしかしたら祭壇なのかもしれない。今まで生贄として捧げられた数多の人間の。
おぞましい。人間の本能が逃げたいと叫んでいる。
けれど……一体どこに逃げるというのだ。
檻の中しか知らないものは、逃げる場所さえ分からず……もちろん、逃げ出したのちに外で暮らしていく方法もわからない。
窓の外、陽が落ちてゆく。黄昏時……まるで己の人生のようだ。
これから生きるのは、月も星もない夜の時間。
「…………私のことは今後大公殿下とだけ呼ぶように」
掠れた声は、どうにか言葉を紡ぐことができた。
「………………」
「人を人形のように扱う者たちに名を知られたり、呼ばれたりするなど悍ましくて吐き気がします」
「………………殿下……」
「〝大公〟の近くにいてもおかしくない立場……。貴方は今日から〝大公〟の〝護衛兼側仕え〟になってください」
「…………畏まりました、殿下」
「……あなたの新しい呼び名も決めましょう」
「………………」
「珍しい名前ではなく、ブリタニア風で……ありふれた名前の方が信じられるでしょう。……ウィル。貴方のことを今日からウィルと呼びます」
「……かしこまりました。大公殿下」
「私と共に在ってくれますか。私たちの〝願い〟が叶うその日まで」
「…………もちろんです、大公殿下。決してお側を離れません」
今日、少女は殺された。
相手には必ず……その代償を支払わせる。いつになろうとも、どれだけの時間がかかるとしても、絶対に。
「……私たちの願いについて、あなたもよく分かっているでしょう。いつか────────」
太陽は墜ちた。
けれど、落日の時は自分たちだけに訪れるのではない。
すべてのものが、必ず洛陽を迎える。
生きている万物は、必ず死を迎える。その理から逃れる術などない。
どのような地獄でも正気を失わなず。
不快感を──決して感情を表に出さず。
どんなことがあっても、何を言われても、何をされても……決して動じず、微笑みを絶やさず。
生きてみせよう。
……耐えてみせよう。
この道は、いつかまた太陽に出会うための旅路。
反対を行くもの……死出の旅が始まっていることも知らずに、今はせいぜい笑っているといい。
奈落へと続く穴が、舌なめずりをしながら、堕ちる人間を今か今かと待っている。
今から自分たちは、そこを一等美しい花畑に変えるのだ。
落とし穴を隠して、座して待つ。
願いは必ず叶う。
あとはその時まで……生きるだけ。