憧れ
大公と側仕えの少年には、決して肌身離さず持ち歩いているものがある。
細かな紋様が美しく刺繍された、小さな袋。
中には大理石で出来たケースが一つだけ収められている。
ケースの中には、とても大切な薬が入っている。
薄いピンク色の錠剤を飲むことは、彼女が朝目を覚ましてから一番に行う習慣だった。
トレイにグラス二杯分の水を用意した水差しを乗せて、今朝咲いたばかりの花を一輪添える。それを手に、少年は大公の寝室に足を向ける。
皇帝からのお召しは前触れなく、時間に配慮されることなく訪れる。
だから、彼ら二人が安心して一日を終えることは無いと言っていい。
大半は夜分遅く、眠っている時に叩き起こされ、明け方に〝用事〟が済んで戻ってくることが多い。
あのような男がこの国で権威があるなど、悍ましいことだ。
永遠に理解することはないだろう。
負の感情を決して表には出さずに、美しい姿勢で少年は扉の前に立つ。
「……失礼いたします」
二度のノックの後に声をかけて、少年は扉を開いた。
天蓋の付いた豪奢なベッドは、大半の人間には好意的に映るだろうけれど……一目見た時から彼女を不愉快にした。
屋敷、家具、調度品、服──全てが〝大公〟という地位に付属するものだ。
だから……彼らがそれらに満足する日など、決して訪れはしない。
少女は扉に背を向けて、身を守ろうとしているように身体を丸めて眠っていた。
眠りについている。その事実が少しだけ少年の心を安らげた。……それも、気休めに過ぎないのだが。
サイドチェストにトレイを置き、「殿下、お時間です」と声をかければ……少女の瞳はぱちりと開く。
「…………ウィル…」
「……殿下、お薬を」
「……えぇ……」
少年は懐から大理石のケースを取り出し、薄いピンク色の錠剤を一粒、大公の掌に乗せる。
彼女はそれを口に含み、少年から渡された水の入ったグラスでしっかりと飲み込んだ。
彼女がこの薬を服用する習慣は、二人の中では何よりも重要だった。
可能性はすべて排除しなければならない。
決して、彼女と皇帝の間に──子を成すことなどあってはならない。
「ご気分はいかがですか?」
「いつもと変わりありません」
──気分は最悪。体調に問題はない。
そうして、彼らは新しい一日を始める。
***
簡単な朝食を済まし、テーブルにはパソコンと沢山の新聞が並べられる。
「今日もまた、分厚いですね」
「左様で。行政特区日本の失敗と、ゼロによるブラックリベリオンの影響は大きく…………」
特区日本。ユーフェミアが発案した政策。
もちろん、少女も側仕えの少年と共に式典を見守っていた。──待っているのが悲劇だと知っていて。
ブラックリベリオン終結後、ユーフェミアの騎士であった枢木スザクがゼロを連行してきたとき、彼女は皇帝と共にゼロと対面している。
その際に胸に抱いた感情を誰にも話すことはなく……彼女は新聞の束に手を伸ばす。
すべてのページを確認し、重要だと判断した記事を熟読する。すべての新聞を確認し終え、ネットニュースを見始めようとしたとき。少年は一つの封筒を彼女に差し出した。
「……こちらの封筒は?」
「…………知らせが入りました。園にて………………小鹿が生まれたと」
「……………………そうですか……」
その言葉を零した時、彼女は珍しく、悲しみを発露した。
また新たな命が生まれてしまった。いつか──となるための。
「…………花を、送りましょうか」
「………………かしこまりました」
「…………他所から手配するものではなく…………庭園に咲いている花を送りましょう」
「………………仰せの通りに」
彼らにとって、不愉快でない出来事の方が珍しい。
小鹿の知らせは、彼女をひどく落胆させた。
……暗くて深い闇の奥底に堕ちても、この世から去る訳にはいかない。
──やるべきことがある。必ず成し遂げる。
その決心だけが、彼女を生き長らえさせている。
***
ネットニュースに目を通し、簡単に昼食を済ませ……彼女は園に送る花を選ぶため、庭園に出た。
庭園に咲く花は、彼ら二人の意志が反映される数少ない場所だ。
思想も欲望もなく、ただ生きて、咲いて、次の命を繋ぎ、枯れる様が……いかに尊いものか。
しなやかな指が、そっと花弁に触れる。
そこには、確かに彼女の感情があった。
手を伸ばした花の隣に一羽の鳥が降り立つ。
珍しい客人だ。少女は少年を呼んだ。
「ウィル、ウィル? 珍しいお客様がいらっしゃいましたよ」
「お客様……?」
疑問を表情に出す彼の手を引いて、二人で鳥の前にしゃがみ込む。少女が差し出した細い指に鳥が留まった。
「まぁ」
驚いた少女は、幼い子どものように顔を綻ばせた。
「鳥籠をご用意いたしましょうか」
少年の申し出に、彼女は悲しそうに笑い、首を横に振った。
「よしましょう。理不尽ではないですか」
「理不尽ですか?」
「せっかく翼を持って産まれたのに、籠の中に閉じ込めてしまうなど」
少女は指に留まる小鳥の背を一度撫で──
「お行き。空で……お前の意志で……その命を生きなさい」
──空に向かって手を上げた。青く晴れ渡る広い空に、鳥が飛び立つ。
鳥の姿が見えなくなっても、彼女は空を見上げていた。
***
夕暮れ時に夕食を済まし、食後の紅茶を飲み終え……陽が沈むと同時に、彼女は入浴を始める。
大理石の浴場も、花の香りがする浴用化粧品も、彼らが興味を抱くことはない。
少女は水の流れる様を眺めるのが好きだった。
音も心地よくて好きだ。せせらぎの音は永遠に聞いていても不快にならないし、流れていった先──いつか海に辿り着いて広い世界を漂うというのも少女には羨ましいことだった。
不快なものが多すぎるこの世界で、彼女に数少ない癒しを与えてくれる。
固体にも液体にも、それに気体にもなれるなんて、水とはなんて素晴らしいのだろう。
少女は時折、浴槽で無意味に手を動かして水の音を楽しむ。
排水溝が水を吸い込んで渦を巻くのを眺めることもあった。
……羨ましい。水のように液体になって、気体になって、ここから────。
目を閉じて繰り広げられる空想の世界は、果てしなく広く、途方もなく優しい。映像でしか見たことの無い海。彼方の水平線。そしてどこか広い草原の地平線。
景色が変わるまで駆けて行けたなら、どれほど素敵だろう?
「殿下」
空想の中で風になろうとしたところで、彼女の夢は途切れてしまった。
ゆっくりと目を開く。うんざりするほどに見慣れた、いつもの浴室が目に入った。
「………………ウィル」
「……申し訳ありません、殿下。皇帝からのお召しです」
「………………………………わかりました」
一度水面に視線をやってから、少女は小さくため息をついて立ち上がる。水滴を拭い、髪を乾かし──ドレスを纏わなければならない。
この世で最も不快な時間が待っている。許されるのなら、ため息どころではなく地団太を踏んで叫びたいところだ。
けれど、そうしたところで待っている未来が変わる訳では無い。
今は我慢の時だ。あとどれくらいかは分からないけれど……〝その時〟は確実にやってくるのだから。辛抱強く待たねばならない。
…………待ち望む日が、いつやってくるのか分からないというのは、とても、とても辛いことだ。
〝その時〟がいつか分かれば、指折り数えて希望を抱いて待つことが出来る。
そうすれば、日々を過ごすのが少しだけでも楽しくなるのに。
「……参りましょうか」
大公は口角を無理矢理上げて、笑顔を作った。
偽るのは得意だ。
宮殿へと続く、重厚な扉を潜る。
ゆったりと歩く姿は美しく──微笑みはまるで女神のよう。
二人の足音だけが通路に響いていた。