逃避主義者
そう長くない時間を車に揺られ、皇籍に復帰したばかりのナナリー・ヴィ・ブリタニアは初めてその屋敷を訪れた。
幼少期、兄・ルルーシュや姉・ユーフェミアが訪問するのを羨みながら何度も見送った、大公の邸宅。先日ナイトオブセブンに就任した枢木スザクの手を借りて車を降り、車椅子へ着席する。
ナナリーの鼻腔を、花の香りがくすぐった。
「この香りは……薔薇ですか?」
「うん。凄い薔薇のアーチだよ。他にも色んな花が咲いているみたいだ。…………僕はあまり花には詳しくないけれど……」
「………………」
「行こうか」
「……お願いします」
スザクが声をかけ、ナナリーの車椅子が動く。弱い風に植物が揺れ、さらさらと葉の靡く音が心地いい。沢山の花の香りも。……この景色を眺められなくて残念だ。
緩やかにカーブを描く道を進み、影が差す。車寄せの屋根で光が遮られたのだろう。
キィと、木の軋む高い音が聞こえ──空気が変わる。
屋敷の扉が開いたのだと、言葉にされる前に理解した。
「……大公殿下の側仕えを任されております、ウィルと申します」
「初めまして、ナナリー・ヴィ・ブリタニアと申します」
「自分は」
「存じております。ナイトオブセブン、枢木卿。控えの間へご案内いたします」
先に歩き出した、ウィルという少年の足音が通路に響く。少し遅れて、車椅子の音と枢木スザクの足音が続いた。
折り目正しい人物ではあるのだろうけれど……自分たちを歓迎してはいないようだ。ナナリーは膝の上に置いている両手を握りしめた。
何度も謁見の願いを取り下げられたが、十二度目の申請でようやく許可がおりた。
兄は随分と大公に気に入られていた。もしかしたら、彼女は……兄の行方を知っているのではと、一縷の望みをかけてやってきたのだ。
通路を一度右に曲がり、扉の開く音。控えの間へと着いたのだろう。コーヒーの香りが部屋を満たしていた。
「枢木卿はこちらの部屋にてお待ちください」
「…………」
「私がナナリー殿下をお連れ致します。大公殿下は枢木卿とは面会されません」
感情の読み取れない、静かな声だった。
「…………スザクさん」
「僕はここで待たせてもらうよ」
表情の強張ったナナリーを勇気づけるように、少年はわざと明るい声をあげ──その声は確かに彼女を勇気づけた。胸の中から温かな気持ちが生まれ、心臓から指先へと広がっていく。
「では」
短い言葉と共に、車椅子は再び動き出す。
ナナリーは車椅子の上で姿勢を正し、髪を撫でつけ、服の裾を払う。
そして──。
「失礼いたします」
この掛け声は、ナナリーではなく、彼の唯一の主──大公へのものだろう。
「どうぞ」
耳に馴染む美しい声だった。一瞬、自分は歓迎されているのかと錯覚する。けれど、ナナリーは幼少期、兄が繰り返し口にしていた言葉を思い出した。
「表面上だけの歓迎」。
ドキドキと弾む胸を抑えるように、ナナリーは深く息を吸い……花とコーヒーの香りを感じる。
「………………?」
小さな違和感。
クロヴィスも、ルルーシュも、ユーフェミアも──今はもう誰もナナリーの近くにはいない──いつも『大公は紅茶で歓待する』と話していた。
「初めまして、ナナリー・ヴィ・ブリタニア」
「……お目にかかれて光栄です、大公殿下」
「貴方のことはルルーシュからよく聞いていました」
「…………わたくしも、兄と……ユーフェミアお姉さまからお話を伺いました」
「そうですか」
優しい声音。慣れないコーヒーに口を付けながら、無難な話を続ける。端的な返事は、どこか兄……ルルーシュの口調のようで。
「お兄さまはお姉さまのことを……」
ナナリーは自分の失敗に気づかなかった。
大公はすうっと目を細め、手にしていたコーヒーカップをしとやかに置いた。
「ナナリー・ヴィ・ブリタニア。わたくしはあなたにその呼び方を許してはいません」
「…………申し訳ありません、大公殿下」
己の失態に気が付いたナナリーは息を呑んだ。
「本日の面会はここまでに致しましょう。退室なさい」
「かしこまりました」
大公がソファから立ち上がるのがわかった。ヒールの靴音が少しずつ遠ざかっていく
側仕えの少年は「失礼いたします」と声を──ナナリーではなく大公に──かけ、車椅子が動き出す。
面会は十分と経たずに終わりを告げた。控えの間で待っていたスザクは驚きつつも、優しくナナリーに声をかける。
車椅子を押す人間が少年からスザクへと変わり、屋敷を訪れた時と同じように、少年の先導で二人は外に出て、簡素な別れの言葉を最後に扉は閉められた。
失敗するだけでなく、ご不興を買ってしまった。
大公は、ナナリーのような皇位継承順位の低い人間よりもよほど皇帝に近しい。
もしかしたら、総督の仕事にも影響が出てしまうかもしれない。
行方知れずの兄へと繋がる手がかりを得るためには、どうしても成功させる必要がある面会だったのに。
皇帝への謁見も何度申請しても通ることがなく、兄弟は皆角がたたないような、上辺だけの言葉をかけるのみ。
ナナリーが戻ってきたことも、行方不明の兄ルルーシュを探していることも、快く思っていないのだ。
この宮殿で求められるのはーーシュナイゼルのように秀でたものと、オデュッセウスのように流されるものと、コーネリアのように戦うものだけ。
そうして、ナナリーに求められているのは……人形のように、意のままに操れる存在であること。
エリア11への赴任も、彼の地の衛星エリアへの昇格を目指す自分のような人間にも……誰もが価値がないかのように、通り過ぎていく。
落ち込むナナリーに、優しく声をかける枢木スザクの言葉は、彼女を余計に追い詰めた。
……兄への手がかりを掴みたかった。
もしかしたら……もう二度と会うことは叶わないのかもしれない。
宮殿という場所は、決してナナリーにとって優しい場所ではない。
あぁ、戻ってきたのだ。
この冷たく、裏表のある人間ばかりで、誰かを蹴落とし、のし上がろうとする人間の……醜いものを煮詰めたかのような場所に。
最愛の兄という味方がいない状態で。
この場所で……生きていかねばならない。
誰かの助けを借りなければ、満足に日常生活すら送れないこの身体で。
***
ナナリーを置いて応接室を出た大公は書斎へと足を運んだ。
天井から床まで、隙間なく本が並べられている。〝大公〟という地位が何代続いているのかは知らないし興味もないけれど──いくつかの本から、〝大公〟の思考や感情が垣間見れる。
開き癖のついたページ。栞が挟まれたままの本。赤いインクで引かれた線。〝絶望〟という書き込み……。
「………………」
蓄積された悲しみ。大公は小さく息を吐き、一冊の本を手に取った。
アーサー王伝説。彼女はカムランの戦いを繰り返し繰り返し読んだ。戦いに敗れ、命を失う王の姿が好きだった。
一体何度、この本を手にしただろう? カムランの戦いで傷ついた王の姿を思うと……夢を見られるのだ。言葉や行動を制限できても、人の意志を挫くことはできない。抱いている夢も、願いも。誰も彼女から奪えない。
世界は揺れ動いている。日本という小さな島国は契機となるだろう。
一冊の本を手にし、大公は書斎を出、私室へと足を向ける。
扉を開くと、側仕えの少年が紅茶の準備をしていた。
「葉は?」
「殿下の一番お気に入りのものを」
「ありがとうございます」
少年に声をかける大公は優しく微笑んでいる。
先ほどナナリーに向けた表面上の微笑みではなく、親愛と信頼の証でもある笑顔。
「ご気分はいかがですか?」
「……あなたも中々皮肉屋ですね」
「お仕えしている主人の影響かもしれません」
ふふ、と小さな笑い声が響く。
大公はソファに腰を下ろし、紅茶の香りを楽しんだ。
「……………」
「ナナリー様からの謁見は今後全て取り継ぎません」
「えぇ、そのように」
兄であるルルーシュという存在を失い、一人で宮殿に戻ってきたナナリーが、以前とは変わっているのではないかと試しに謁見を許してみたが……。
期待を抱いたことが間違いだったのだろう。
謁見を許可するべきではなかった。
紅茶を楽しみ、膝の上に書斎から持ち出した本を広げる。
そうすれば、もう彼女の思考にも心情にも、ナナリーのことなど一片も残っていはしない。
彼らにとって、〝皇族〟の人間への関心度はそれほどに低い。──ただ一人を除いて。
二人の世界は美しく、けれど小さく完結していた。