水平線の向こうから
第二水曜日と第四水曜日。午後二時になると、一服するためにコーヒーを持って基地の屋上に上がる。ポケットから取り出した双眼鏡で、水平線の向こうに目を凝らす。
偉大なる航路にしてはおだやかな海域。全身に春島の風を心地よく受けていると、水平線の向こうから、小さな──遠すぎてまだ点にしか見えないけれど──人影がやってくる。
それを確認してから、コーヒーを一息に飲み干し、紙コップを潰して双眼鏡と一緒にポケットにしまって、屋上から一階に降りる。そして、潰した紙コップを下士官に渡し、そのままの足で一番近い海岸へと足を向ける。道すがら、部下から敬礼とともに「またですか」「今日は水曜でしたか」なんて言葉を掛けられて、いつものように苦笑いしながら歩いてゆく。
「あら、大佐。どうなさったの?」
「お客さまのお出迎えです」
「…………あぁ、今日は水曜だったわね」
水曜の定期訪問について、街の人にまで話が広まっているから、少し恐ろしい。
が、今はそのことには触れず、ひたすら足を進めて街を抜け……海岸に到着する。
そのまま少し南に下って、目指すのは小さな桟橋だ。
延々と続く砂浜から、ぽつりと突き出たその桟橋は、釣りのスポットとしてはあまり人気が無いのか、いつも人がいない。
………………さて。
ここまでの移動時間は約十分。再び双眼鏡を手にして水平線を見やれば──自転車に乗った人影がぼんやりと目に映る。能力者にとっては鬼門と言ってもいい海の上を、自転車で進んでくる光景を見慣れてしまっているのだから、おかしなものだ。
水曜日、水平線の向こうから現れるお客様──大将青キジ。海軍最高戦力、大将の一人に数えられている人物で、次期元帥との呼び声も高い人だ。
桟橋で待機することニ十分。その人は悠々と自転車で現れた。
「よぉ、お疲れ」
「お疲れ様です、クザン大将」
敬礼をすれば、返礼はいつもの通り、大将にしては気の抜けたものだった。
***
「よっこらせ」と言いながら桟橋に引き上げられた自転車を受け取る。クザン大将が長距離を移動してきて固まった身体をほぐす。そうして。
「さて、行くか」
「…………お供します」
街へ向けて歩き出した大将の二歩後ろに、自転車を押しながら付き従う。
「あの角の店、新しくなった?」
「そうですね、先週開いたばかりです」
当てもなく街中を歩いているのに、彼は些細な変化も見逃さない。頭の中がどうなっているのかをいつも疑問に思う。
海軍基地に戻ってきて、クザン大将の自転車を二等兵に預けて。二人で最上階へ。自分のデスクへ向かう。貴賓室に通されることを好まない彼は、いつもデスク横に設置されている簡素な応接セットのソファに腰かけて時間を過ごす。何かをする訳でも無く、ただコーヒーを二杯飲んで、適当にいくつか仕事の話をして──要するに、だらだらとしているのだ。
…………わざわざ、海を──それも偉大なる航路を──越えてやってきて。
大将が来るというのに、まさか放っておく訳にもいかず。必然的に、何人かは仕事の手を止めることになる。と言っても、もう基地の全員が大将の定期訪問に慣れていて、今では手を止めるのは自分と、自分の副官──コーヒーへのこだわりが強いクザン大将を相手に、基地にある決して美味しいとは言えないコーヒーを淹れてくれている──の二人くらいだ。
クザン大将は気怠そうに私の書類を捲ってみたり、窓から訓練する下士官を見てみたり、それはもう気ままに過ごしていく。
そうして。
「あーあ。飲み終わっちまった」
二杯目のコーヒーを飲み干すと、やれやれと言った風に腰を上げる。
一階に降りて、二等兵から自転車を受け取り……また自転車を押しながら街を抜けてあの桟橋へ。
「あーあ」
そうため息を吐くクザン大将に自転車を引き渡して。今度はクザン大将が自転車を押して街を抜け、再び桟橋へ。彼がそれに跨るのと同時に、桟橋の先から海へと、緩やかな傾斜をした、氷の坂道が出来上がる。
「では、道中、お気をつけて」
敬礼をしながら声を掛ける。
クザン大将は返事の代わりに軽く右手を上げて、「あぁ、またな」と言ってから海へ向けて自転車を漕ぎだした。
彼が坂道を下り終えたのと同時に、氷が割れてパキリと音をたてて海に落ちる。海まで降りるスロープは役目を終えたけれど、クザン大将の帰り道になる、氷の道が遠くの海まで続いている。
──では、道中お気をつけて。
──あぁ、またな。
ゆっくりと自転車が進んでいき、クザン大将の背中は遠くなる。白いスーツは海に埋もれることなく、彼の居場所を主張し続けている。
──では、道中お気をつけて。
──あぁ、またな。
気を付けて、なんて言葉。彼には必要ないだろうけれど……それでも言わずにはいられない。海とは恐ろしい場所なのだから。
遠ざかっていく背中を、敬礼したままぼうっと眺める。
水平線の向こうに、その姿が消えるころには……陽がくれて、夕闇が忍び寄ってきていた。
──あぁ、またな。
「……………………」
敬礼を解いて俯き、水面に視線を落とす。寄せては返す波の音。遠くも無く、近くも無い場所を飛んでいる海鳥の声。
十数えたら、気持ちを切り替えよう。
一、二、三、四、五、六、七、八、九、十。
頭の中でカチリと、スイッチが切り替わる音がしたような気がした。
海に背を向けて、基地への道を歩き出す。
手を止めてしまった時間がある分、仕事は溜まっているはずだ。一体書類はどれくらい増えただろうか。
──あぁ、〝また〟な。
あの人は、再来週の水曜日に、またやってくる。