死に近い場所 1

時計のアラームが鳴る。は五秒と待たずに腕を伸ばしてそれを止め、ベッドの上に身体を起こした。
緊急警報アラートの心配をすることなくゆっくりと眠れる。なんて贅沢なのだろう。
サイドチェストに置いている時計は、幼いころに母が買い与えてくれたものだ。シンプルで長く使えるその時計を兄妹はアプリリウスの別邸に置いていた。
、朝だよ。さぁ起きて』
眠気は醒め頭ははっきりとしているのに、まだまどろんでいたい気持ちを持て余す。眠りたいのではない。ただ──兄が声をかけて起こしてくれたあの朝が懐かしい。もう一度布団をかぶっても、の元に眠気はやってこないし……兄も現れない。兄は死んだ。身体は今もきっと……ユニウス・セブンの中で漂っているのだろう。
「………………」
自分一人で朝起きるということ。それは、アカデミーで真っ先に矯正されたものの一つだ。スクランブルに対応するために睡眠も起床もコントロール出来なければならない。入学してひと月も待たずに、はアラームの前に目が覚めるようになった。必要に迫られれば、こんなにも短い期間で習得出来たのだ。それなのに、以前のは何もしなかった。……に甘えていたのだ。過去を思い返せば、後悔ばかりがを襲う。もっと沢山、兄と、母と話をすればよかった。もっと早く、一人で自立した生活を送れるよう努力するべきだった。そうしたら、兄だって……安心出来ただろうに。
ベッドから降りて洗面所へ向かうために扉を開く。の部屋の正面には、の私室がある。中に入れば、ベッド横のチェストに、のものと色違いの時計が置かれているだろう。今も正しい時を刻んでいるのかは分からないけれど。
部屋に入れば、兄の面影を感じられるだろう。けれど……今のには、その資格はないように思われた。
は小さく息を吐いて、洗面所へと足を進めた。

身支度を整えてダイニングへと向かうと、テーブルには一人分の食事が用意されていた。
手入れの行き届いたグラス、サラダボウル、スープカップにカトラリー。細かい紋様の施されているカトラリーは、〝大人〟の証だった。子ども用の小さなカトラリーを卒業して、初めて両親と、兄と同じカトラリーを使用したとき、は嬉しくて堪らなかった。そして、兄も喜んでくれた。まるで父親のようにしみじみと『大きくなったね』と呟いて。母が笑いながら『貴方もね』と返して、父が静かに笑う。それが、家族の団らんだった。
懐かしいカトラリーを手にし、はスープを、パンを、サラダを、一つ一つ、すべてを確かめるように噛みしめて食した。成人女性の一般的な食事量よりもずっと少ない食事に、家令が眉をひそめている。これでも、潜水艦にいた時よりは回復したのだ。小さなコーヒーカップほどの量のスープを、やっとの思いで飲み下す。今はサラダとパンも食べられるようになった。時間が過ぎて、少しずつでも、確かに回復していく。悲しみに一番効果のある薬は時間だ。転げ落ちた坂道を少しずつ登って、いつか…………。スープを飲み干して、はスプーンをテーブルに置いた。復調は喜ばしい変化だ。けれど、今のには、ニコルの死が過去になっていく事実がまた悲しみを連れてくる。ニコルの回復を喜ばない訳はない。そう理解していても、の気持ちは沈んだ。
今この瞬間を、は精一杯生きていた。

ザフトの事後処理も、帰国の挨拶回りも、同僚の家族への挨拶も……あらかた片付いている。
その日、父の見舞いへ行く以外の予定はなかった。
新聞に目を通し、ぼんやりとテレビのニュースを眺めていると、家令がイレブンシスの紅茶とビスケットを運んでくれたので、は一枚だけビスケットを食べた。懐かしい味が身体の隅々まで染み渡っていくようだった。

ニュースや新聞では、の欲しい情報は手に入らない。地球の最前線で戦うクルーゼ隊の──イザークの──様子を知るには、プラントはあまりにも遠すぎる。メディアはまだスピットブレイクの失敗を報じていない。もしかしたら、公表される日は来ないのかもしれない。今後、司令部はどのような手を打つだろう。あれだけの大規模な作戦。求める戦果も相応に大きかっただろう。残った戦力でスピットブレイク以上の結果が求められるのではないか。生き残った兵士にしわ寄せが行かなければよいのだけれど……。

パトリック・ザラはメディアの対応に随分と力を注いでいるようだ。定例の記者会見が始まると、どのチャンネルもライブで映像を流し始めフラッシュが次々と輝く。その光は、に宇宙での戦闘を思い出させた。命が失われた証である、戦場の瞬き。
「お嬢様」
過去へと旅立っていたを、家令の声が呼び戻す。
「お戻りになられたばかりでお疲れでしょう。ザフトや戦いから離れられてはいかがでしょうか」
それは、いつも主の意を汲み行動する彼らしからぬ提言だった。
『まずは休んで……これからのことを考えるといい。復学して卒業してからでも構わない』
父の言葉を思い出す。復学して学位を取得し、学校を卒業する。戦争から離れて安息する。その時間も必要だろう。けれど……。この戦争から離れる、本当にそんなことが可能なのだろうか。仮に可能だとしても……にそれは許されるのだろうか。自らの意志で銃を手にし、人を殺めた存在なのに。
アプリリウスの別邸には、ノウェンベルの本邸のように前庭が存在しない。だから、窓の外を見ればすぐに街の様子が確認できる。はしゃいで走りだした子どもを、母親が追いかける。そのあとを、スーツの男性が足早に通り過ぎていく。──ニコルが、イザークが、アスランもディアッカも、ラスティも──守りたいと願っている、平穏な日常。戦場を知ったからだろうか。プラントは変わっていないのに、の目に映る世界は変わった。
銃を手にし、モビルスーツを駆って戦っていた日々。戦いを選んだ人間。
今はまだ──以前のような、ただ眺めているだけの人間には戻れない。

いつか、随分と遠い昔、ニコルと二人で「ずっと学生のままでいられたらいいのに」と嘆いたことがある。
けれど、はあの時兵士となる道を選んだ。その選択がこれほど重大な意味を持っていると、なぜ気が付かなかったのだろう。
の世界が変わったのではなく、自身が変わったのだ。そしてこの先の人生も、今歩いている道の延長線上にしか存在しない。
は小さく、けれど確かに首を横に振った。
「…………お嬢様……」
「……ありがとう。けれど…………ごめんなさい」
肩を落として仕事に戻る家令の背中を、は黙って見送った。


***


それでも、数日の間、は穏やかな時間を過ごした。父の見舞いに出かける以外のすべての時間で、ナはこんこんと自分に何が出来るかを考えていた。新しい戦況を知らせるニュースはない。報道管制が敷かれている中で、一般のメディアから得られる情報はごくわずかだ。軍令部や議長に親しい人物にパイプがあれば、それも可能なのだろうけれど、そんな無茶をすれば待っているのは……シーゲル・クラインのように国家反逆罪の烙印だろう。
「………………」
思考が行き詰ったときには、身体を動かすといい案が浮かびやすい。
はソファから立ち上がり、使用人にエレカの手配を頼んだ。

コンコン、とノックを二回。「です」と名乗り、父の病室の扉を開く。ベッドに身を起こした父がこちらを見ている。それがいつもの光景だけれど、今日は違った。扉を開けたの目に飛び込んできたのは、父と、父の秘書であるエドガー、そしてユーリ・アマルフィの三人だった。
ユーリの姿を見て、途端にの身体は動くことを放棄した。扉に手をかけたまま、はただユーリ・アマルフィの姿を見ていた。帰国してから直ぐにアマルフィ邸を訪れてはいたが、ロミナと話をしただけで……ユーリとは久しぶりの対面だ。地球で死んでしまったニコル。それをただ眺めているだけだった、あまりにも無力な自分。そして一人でプラントへと戻ってきた。の視界は滲み、溢れ出た涙が次々と頬を流れていく。
「…………ユーリおじさま、私…………」
一体何を言えばいいのだろう? 後悔、心残り、情けなさ、自己嫌悪。数えきれないほどの感情が沸き上がり止まらない。
、いいんだ。…………君が……無事で…………よかった。テオの意識が戻ったのに、君までいなくなってしまったら……考えただけで恐ろしい」
ユーリは絞りだすようにその言葉を零した。どうして、優しい人が傷つき、苦しむのだろう。……優しいから、傷ついてしまうのだろうか。ユーリ・アマルフィはの元へ歩み寄り、の手をそっとドアノブから外し扉を閉じた。
「……ロミナから話は聞いたよ」
「おじさま……」
「君がニコルの遺品を持ってきてくれたそうだね。……ありがとう」
違う。お礼を言われるような行いではない。には遺品を持ち帰るという行動しか出来なかったのだ。それなのに……。
「二人で……ニコルと二人で、帰って、来たかったです……」
ユーリは黙っての肩に触れた。それ以上、二人の間に言葉はなかった。悲しみを分かち合っている瞬間にも、ユーリ・アマルフィは優しい。その優しさに応える力がには無い。はただ自分の無力さを思い知った。
『ザフトや戦いから離れられてはいかがでしょうか』
戦場から離れても、この戦争と関わらないという選択肢はには存在しないのだ。『守るために』と銃を手にし、戦い、人の命を奪った。はその責任を取らなければならない。自分がどれだけ無力だと理解していても、すべてを投げ出していい理由にはならない。この戦争が終わるまで──何度も自身に問いかけ続けるだろう。何を考え、何を選択し、どのように行動するのか。肩に触れるユーリの掌が暖かい。静かに涙を流しながら、は静かにその事実を受け入れた。


***


仕事へ戻るというユーリを見送るために、は彼と二人でエントランスへとやってきた。
「今までのように……いつでも屋敷に来てくれ。ロミナも喜ぶ」
「…………はい、おじさま」
ユーリ・アマルフィはそう告げて、エレカへと乗り込み病院を後にした。
ふわりと柔らかく風が吹き、のスカートがそよぎ、花の香りを届ける。人間の過ごしやすい温度が保たれているプラント。地球では……今、一体どんな風が吹いているのだろう。イザークは壮健だから、体調を崩したりはしていないだろうけれど……。生存者リストにイザークの名前があったとはいえ、怪我の有無や体調はわからない。地球は遠い。情報が届くにも随分と時間がかかる。いつかはわからないけれど、次にイザークと会うときまでには、もっとしっかりとしなければならない。悲しみに暮れるだけの時間は過ぎ去ったのだろう。は少しずつ自分の未来について考え始めている。ニコルのことを忘れる訳ではないのに、思考や気持ちの変化は……やはり、にとって痛みを伴うものだった。


***


父の病室へと戻ると、先ほどまでとは様子が一変していた。エドガーは手元の書類を忙しなく確認し、次々と父に手渡して──父も渡された書類を確認して、ペンを走らせ署名し、印章を押している。俄かには信じがたいが、テオ・は仕事を始めていた。
「……まさかとは思いますが……お仕事をされていらっしゃるのですか?」
「身体が起き上がり、指が動けば仕事は出来る」
がベッドに近づくと、テオもエドガーも書類と端末を伏せる。機密事項なのだろうけれど、そんなことはどうでもよかった。
「いくら何でも早すぎます! まだお休みになるべきです!」
思っていたよりも大きな声が出てしまい、は父に「静かに」と窘められた。
「エドガー」
父が秘書に声をかけると、エドガーは直ぐにの手を引いて、病室を出、ラウンジへと移動した。
あまりにも酷い。が抗議の声をあげようとする前に、エドガーは申し訳ないと頭を下げた。
「お仕事のことはですね、先生……お父様から指示がありまして」
「それはわかっています。それでも……意識が戻ったばかりで、まだ安静が必要です」
「もちろん、さんの仰る通りです。けれど、戦況や政治の情勢をご説明差し上げまして、すぐに動く必要があると……。アマルフィ議員が急進派となられたこともあり……」
広がるばかりの戦果と、増えていく死者。議長に就任したのは急進派のトップであるパトリック・ザラ。きっと、これは父にとって譲れないものなのだろう。もう少し休養し、回復へと努めて欲しいけれど……父の決断を変えられる言葉を、は持っていない。結局、は体調に気を付け、無茶をしないことを父と話し、病院を後にした。

世界からが隔絶されたかのように、帰路につくエレカの車内は静かだ。
街を歩く人々の表情は明るい。スピットブレイクの失敗を知らない彼らは、守られているのか、ないがしろにされているのかどちらなのだろう。は彼らを羨ましいと思わないのは確かな事実だった。
父の体が心配だ。けれど……父が行動を起こす必要があると、それが正しいのだと判断できる情報をは持っていない。ユーリ・アマルフィがパトリック・ザラの派閥へ入ったという話も知らなかった。当然だ。今のはザフトの兵士でも政治に携わる人間でもない、ただ一人の民間人なのだから。
〝民間人〟。この立場がこんなにも無力だとは思わな──
「っ!」
違う。今、何のしがらみもないならば……父の仕事を手伝える。行動を起こす以上、の身にも危険が迫るだろう。戦闘経験のあるが父の近くに居れば護衛にもなれる。成人している一人の民間人が政治活動を始める。何も不都合はない。ただ──父が頷いてくれるかは分からないけれど。
今までどうして気が付かなかったのだろう。は居ても立っても居られず、エレカの目的地を病院に変更し、来た道を戻り始めた。父は直ぐに首を縦には振らない。きっと根競べになる。それでも、たとえどれだけ時間がかかっても、決して引くわけにはいかない。アカデミーで訓練した日々がこれから確かに自身の支えとなると、は確信を抱いていた。

病院の通路を足早に進み、ノックを二回。「です」と名乗り、父の返事を待たずに扉を開いた。
父とエドガーは驚いた表情でを見ていた。父の正面に進み、深く息を吸い、吐き出して──口を開く。
「お父様。私、やりたいこと……いいえ、成すべきことを見つけました」
「…………聞こう」
「はい。私は、兵士として人を撃った人間です。ですから……この戦争から離れることは出来ません。誰よりも自分自身が許せなくなります。私はこの戦いを終わらせたいのです。そのために……」
さん……」
「……………………」
「お父様のお手伝いをさせてください。お父様と私の目指す場所は同じはずです」
「…………」
は深く頭を下げた。確かめていないのに、父がどんな表情をしているか鮮明に想像できる。眉間に深く皺を寄せ、目を閉じて考えているだろう。
「先生…………」
エドガーの声は震えていた。
「………………今、このやり取りだけで、いかにお前が政治の世界に向いていないかがわかる」
「………………」
「…………人に憎まれ、命を狙われ、味方となる存在は減り、周囲は敵対する人間ばかりになる。お前の経歴は特にマスコミにとって格好の餌だ。それでも、お前は」
「…………はい。自分には足りないものばかリだと理解しております。それでも、生半可な気持ちではありません」
兵士でなくても、命を賭す決断が必要な瞬間がある。今自分の気持ちから目を逸らしてしまえば、この先ずっと……は自分に言い訳をして、後悔しながら生きていくことになる。かつて、兄もイザークも、同じ覚悟を持って決断し、進む道を決めたのだろう。
「……………………これを最後の確認とする。厳しく、険しい道のりとなるだろう。それでも……」
「はい。どのような道であっても、歩みを止めるつもりはありません」
「……………………よかろう。エドガー、差配を頼む」
「…………承知致しました」
「伏せずにすべて話してよい。万が一でも暴発されたら困る」
「…………承知致しました」
エドガーは苦い表情をして頷いた。以前のであれば『暴発したりしない』と憤ったのかもしれない。ザフトへと志願した過去を持つ以上、は返す言葉を持っていなかった。
そして……は大声をあげないように厳重に注意され、厳しい警備が施されている病室の中で、恐ろしい話を聞く。
状況は、が想像していたよりもずっと過酷なものだった。シーゲル・クラインとラクス・クラインの指名手配だけでなく、シーゲルと志を共にするクライン派の議員が拘束され、議会はザラ派が占拠しているというのだ。
加えて、ニュートロンジャマーキャンセラーの存在、そして、それを搭載したモビルスーツ。プラントは血のバレンタイン以後すべての核を放棄していたというのに、再び核エネルギーに手を出した。
「核エネルギーの利用について……議会での審議は……行われたのですか……?」
「…………いいえ」
エドガーは短く二度首を横に振った。
〝独裁者〟。地球史で学んだ幾人の名前が、の脳裏を過る。
「くれぐれも言動には気を付けてください。何かあれば直ぐに拘束されます」
あまりの衝撃で鳥肌が立ち、の視界は眩暈を起こしたかのようにくらくらと揺れた。
「大丈夫ですか」
エドガーが心配して伸ばした手を押しとめて、は両足に力を入れてしっかりと立ち、胸に手を当てて深く息を吐いた。
「…………お父様は、これからどうなさるおつもりなのですか?」
「意識を失っていた時間が功を奏している。パトリックは私の方針を探っている」
「………………」
あの時、父がコペルニクスで爆弾テロに遭わなければ、クライン派とともに拘束されていたのだろうか。
「拘束されているカナーバ等と接触を試みている。彼らを解放し…………クーデターを起こす。パトリックから政権を奪う」
…………これは戦いだ。モビルスーツで出撃したり、銃を打ち合うだけが〝戦争〟ではない。そして、一度足を踏み入れれば、決して引くことは許されない。
は両手で頬を叩き気を引き締めた。困難な道のりだろう。けれど……必ず踏破しなければならない。随分昔に本で読んだ、有名な一節を思い返した。〝賽は投げられた〟。もう引き返す道は存在しない。ここから、またの戦いが始まるのだ。


***


病室で父の考えを聞いた日から三日が経った。は今、テオ・の代理人として支援者や各所への挨拶周りに駆け回っている。話を聞いた当初こそ驚いたものの、今ではすっかり、以上にこの仕事に適任な人間はいないと理解し、力の限り仕事に取り組んでいる。恐らく、この案を考えたのはエドガーだろう。父の表情は未だ少し険しい。病室から動けないテオ・の代わりに、ただ一人残った娘が挨拶に訪れる。年若い娘の訪問を快く思わない人も、の経歴を知ると態度を変える。ザフトに所属していた経歴は、の想像以上に効果を発揮している。エドガーと話をし、は努めて健気な娘を装った。本当の姿ではない見せかけの表情だけれど、これも駆け引きの一つ。オーブへ潜入した際にもモルゲンレーテの関係者として振る舞った。『どんな経験でも決して無駄にするな』とアカデミーで教官に繰り返し言われていたけれど。まさか、偽装工作の技術がこういう形で役に立つとは想像もしなかった。使えるものは全て使う。ただ、手段を選んでいられる状況ではないということも大きい。
は手元の端末を操作し、これから会う予定となっている人物の情報を確認する。幾度か耳にした苗字。確か、彼には兄と同級生の息子がいたはずだ。家族情報を確認すると、やはり、兄から聞いた名前が記載されていた。
それにしても……この仕事を始めてから、一体どれだけの人に会ったのだろう。出席したパーティでも、ザフトに入隊してからも、は様々な人と対面してきた。それでも、過去の人生で出会った人数よりも、仕事を始めてから出会った人数の方が圧倒的に多く感じる。膨大なデータを頭に叩き込むのは大変だ。は一つ一つの情報を確認し、手元にメモを記し、脳に刻みこむ。政治家という職業は、人の顔と名前を正確に記憶するのが第一関門だと小さく息を吐いたところで、エレカは目的地に到着した。

「お話は伺っておりますよ。ザフトで戦っていらっしゃったなんて、勇敢なお嬢さんだ」
「末席に名を連ねていただけの私には過分なお言葉です」
「お兄様とお母さまの件は……本当に残念でした。嬢はご存じでしょうか。息子はお兄さまと親しくさせていただきまして。私も彼の話をよく聞かせていただきました」
「…………私も、兄から聞き及んでおります」
「お父上が目覚められたニュースは、我が家も嬉しく拝見させていただきました。氏……お父上を支援する気持ちにも変わりはありません。今のような情勢でこそ、氏の力が必要だと強く確信しております」
「……ありがとうございます。お言葉、確かに父に伝えます」
「次にいらっしゃる際には息子にも会ってやってください」
「お話する機会がありましたら、是非」
は笑顔で会話を終え、エドガーと共にエレカへと乗り込み──心配されているのか、何度か運転手として付き添ってくれている──大きな通りに合流するのを待って、身体の力を抜いた。ずっと持ち上げていた口角を労うように撫でつける。
「…………気を付けてくださいね」
「……何かありましたでしょうか」
「…………次に会ったら息子さんとの婚約を勧められそうです」
「………………」
「お嬢さんは応対がお上手ですが、決して油断しないでください」
「………………」
エドガーの言葉は、果たしてを褒めているのだろうか。笑顔で会話をして柔和に接すれば、次には婚約の話。パトリック・ザラが婚姻統制を推進しているのも関係しているだろうけれど。この時、は『プラントへ帰ってきたのだ』と身に染みて感じた。

滞りなくスケジュールを消化し、父の病室で日報替わりのミーティングを行う。テオ・は娘の担当している仕事を厳しく注視していた。特に支援者と会う際には、表情、発言、振る舞いまで〝完璧〟を求め、は粛々と従い、少しずつ学びを蓄えた。厳しい指摘は父の真剣さを裏付ける確かな証であり、ザフトアカデミーでの教育を乗り越えたにどこか懐かしさを感じさせる。父もエドガーも、折に触れて兄の名前を出す。も通った道なのだと思えば、兄がを励ましてくれているかのようだった。


***


書類を提出するために議員会館を訪れたは、エントランスでタッド・エルスマンと遭遇した。
ドキリと心臓の跳ねた音が耳に届いた気がする。は声をあげずに小さく息を呑んだ。脳裏にエルスマン婦人の悲しげな瞳が蘇る。タッド・エルスマンと視線がぶつかった。エルスマン氏は秘書に声をかけてから、の元へとやってきた。
「…………あの……」
「妻が礼を言っていた。息子について話をしてくれたとのことで……。私も感謝している」
「いいえ。ディアッカは……最後に出撃したとき、怪我をしていた私を気遣ってくれました」
最後になってしまった、潜水艦から出撃する直前の僅かな時間。ディアッカはニコルの敵を取ると息まきながらも、利き腕を痛めたに声をかけてくれた。帰ってきて欲しかった。死なずに……生きていて欲しかった。の願いは叶わず、彼は戦闘中行方不明に認定された。今でも、許されるのであればディアッカを探しに行きたい。イザークもアスランも同じ気持ちだろう。大切な戦友。ディアッカを失った悲しみもまた、決しての中から消えることはない。
「そうか……」
エルスマン氏は少し遠くを見るように視線を動かし、は俯かないように顔をあげたまま、タッド・エルスマンの横顔を眺め……ディアッカの面影を偲んだ。やがて、彼はの耳元に口を寄せ、小さく、けれどしっかりとした声で短く口を開いた。
「議会はザラ派に占拠されている。せっかく助かった命だ、パトリックに盾突いて無駄に死ぬことはない」
は驚き、何度か目を瞬いた。次の瞬間にはもうタッド・エルスマンはエントランスを後にしていて、は黙って彼の背中を見送った。
クライン派が議会を追放され拘束された後、中立派と呼ばれる派閥の中で一番有力なのはタッド・エルスマンだ。彼の元にも、パトリック・ザラの手は伸びているのだろう。シーゲル・クラインのように汚名を着せられ、いつ命を奪われてもおかしくはない。それが、今の状況で、どうしようもない現実だった。この場所も正しく戦場で、の最前線だ。
つま先から頭の先まで、身体の中心に信念という柱が通っている。
〝賽は投げられた〟。投げたのは父だったのだろうか、それとも──パトリック・ザラか。一つでも間違えれば、待っているのは〝死〟だ。
脳裏でニコルの声が響き、ブリッツが爆発する。は生きている。そして、まだ死ぬわけにはいかない。
タッド・エルスマンの言葉を心に刻み付けて、は議員会館の階段を上った。